ヒュームは、経験を絶対化して思い込んでいるに過ぎない、という懐疑主義を提唱したが、わたしの考えでは、それも1つの相対主義的な考え方であるように思える。
もちろん自分の経験が全てでほかは全部疑う、という懐疑主義と、みんな違ってみんな良い、という相対主義の間には、何の関連性もないと思う方もおられるだろう。
実際、相対主義には、絶対視という考え方はない。しかし、相対主義の、「相手はどうせある一定の主義主張を述べているに過ぎない」という態度は、懐疑主義の「思い込みだ」という態度と似ていると、わたしは考える。みなさんは、どうお考えだろうか。
このような懐疑主義をとことん突き詰めたのが、
カント(リンゴかもしれない)。
このカントの批判哲学をわかりやすく解説したものが、ヨシタケシンスケの「リンゴかもしれない」である。見えているのはリンゴだが、ホントウの姿は別のものかもしれない、という考え方だ。経験の内容は人それぞれだが、経験の受け取り方には一定の共通項目がある、というのがカントの考え方であった。とは言え、それは人類という種の中での出来事にしか過ぎないのだが、という注釈まで入っている。
経験の受け取り方が同じようになるからこそ、普通の人々の日記やエッセイは面白くないと言える。その意味では、カントは鋭い洞察をしている。
カントによると、結局、人間は、「人間にとっての世界」「人間にとっての真理」にしか到達できないという。
「真理とは、人間によって規定されるものである」
これが、カントの批判哲学であるならば、相対主義の、「絶対的な真理などない」というのと、さほど違いはないように思えてくる。
西洋哲学の基本である、「真理は人間の上位にあって、生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なものである」という常識を覆したところが凄い、と飲茶氏は書いている。
わたしは考え方の基本的な路線としては、相対主義の発展形に過ぎないように感じる。何百年もキリスト教の影響にあったとは言え、少々、情けない。
それまでの常識をぶち破るのが、どんなに大変なのかが、これでよくわかるかもしれない。
このようにして、徐々に理論は発展してきた。
真理=人間の個人的な規定、とする。
ならばどうしたらそれにたどり着けるのか。
具体的な方法を提示したのが、
ヘーゲル(弁証法)である。
(以下次号:不定期連載)