23日 弁証法と実存主義

これまでの哲学は、「みんな違ってみんないい」という相対主義から、「これはリンゴかもしれない」という批判哲学に至るまで、さまざまな説が乱れ飛んでいた。

ひとつの結論として、

真理=人間の個人的な規定」

という考え方が出てきたのだが、ヘーゲルはそれでは満足しなかった。

ヘーゲル(弁証法)

ヘーゲルの提唱した弁証法(べんしょうほう)は、対立や矛盾する二つの事柄を統合し、より高い次元の結論に導く思考方法。哲学の分野でよく使われる概念で、特にヘーゲルマルクスによって発展された。

基本的な流れ

テーゼ(命題): ある主張や意見。
アンチテーゼ(反命題): その主張に対する反対意見。
ジンテーゼ(総合): テーゼとアンチテーゼを統合し、より高次の結論を導く。
具体例 例えば、「経済発展を優先すべきだ」という意見(テーゼ)と「環境保護を優先すべきだ」という意見(アンチテーゼ)があるとする。これらを統合して「環境に配慮した経済発展を目指す」という結論(ジンテーゼ)に導くのが弁証法的な思考である。

歴史的背景

ソクラテスとプラトン: 対話を通じて真理を探求する方法として弁証法を用いた。
ヘーゲル: 矛盾を解消しながら発展する思考のプロセスとして弁証法を体系化した。
マルクス: 社会や歴史の発展を説明するために弁証法を応用した。 弁証法は、単なる妥協ではなく、対立する意見をより高次の視点で統合することで、新たな理解や解決策を見出す方法である。

わたしのコメント:

キリスト教圏内とムスリム圏内の対立は、もはや修復できないかもしれないほど亀裂がある。ヘーゲルの弁証法が成立するためには、まず、自分の抱いている理屈が「完全ではない」ことと、「高次の結論への信頼」を認識しなければならない

それではいつまで経っても、「真理」にはたどり着けない、「私はいま、真理を知りたいんだ」という批判も出た。

キエルケゴール(実存主義)

キエルケゴールの提唱した実存主義(じつぞんしゅぎ)について、概要を説明する。

基本概念

実存: 個々の人間の具体的な存在を指す。いついかなる時も成り立つ普遍的な本質よりも、現実に存在する個人のあり方(自分にとっての真理)を重視する。

本質: 物事の普遍的な性質や役割を指す。
 実存主義では、本質は実存に先立たないと考える。(今真理が得られるなら、未来など要らない!
代表的な哲学者
キルケゴール: 実存主義の先駆者であり、個人の自由と選択の重要性を強調した。
ニーチェ: 神の死を宣言し、個人の意志と力を重視する思想を展開した。
サルトル: 「実存は本質に先立つ」という言葉で有名。人間はまず存在し、その後に自らの本質を作り上げると主張した。

歴史的背景 実存主義は、19世紀から20世紀にかけて、特に第二次世界大戦後に発展した。合理主義や実証主義に対抗し、人間の個別的な存在を重視する思想として広まった。

実存主義の影響 実存主義は哲学だけでなく、文学や芸術にも大きな影響を与えた。個人の自由や責任、孤独といったテーマが多くの作品で取り上げられている。

マルクスは、国家の真理を追究した人。

サルトルは、人間の実存について追求した人。

マルクス、サルトルについては、のちほどご紹介する。

7月21日 懐疑主義と相対主義

 ヒュームは、経験を絶対化して思い込んでいるに過ぎない、という懐疑主義を提唱したが、わたしの考えでは、それも1つの相対主義的な考え方であるように思える。

 もちろん自分の経験が全てでほかは全部疑う、という懐疑主義と、みんな違ってみんな良い、という相対主義の間には、何の関連性もないと思う方もおられるだろう。

 実際、相対主義には、絶対視という考え方はない。しかし、相対主義の、「相手はどうせある一定の主義主張を述べているに過ぎない」という態度は、懐疑主義の「思い込みだ」という態度と似ていると、わたしは考える。みなさんは、どうお考えだろうか。

 このような懐疑主義をとことん突き詰めたのが、

カント(リンゴかもしれない)。

このカントの批判哲学をわかりやすく解説したものが、ヨシタケシンスケの「リンゴかもしれない」である。見えているのはリンゴだが、ホントウの姿は別のものかもしれない、という考え方だ。経験の内容は人それぞれだが、経験の受け取り方には一定の共通項目がある、というのがカントの考え方であった。とは言え、それは人類という種の中での出来事にしか過ぎないのだが、という注釈まで入っている。

経験の受け取り方が同じようになるからこそ、普通の人々の日記やエッセイは面白くないと言える。その意味では、カントは鋭い洞察をしている。

カントによると、結局、人間は、「人間にとっての世界」「人間にとっての真理」にしか到達できないという。

真理とは、人間によって規定されるものである

これが、カントの批判哲学であるならば、相対主義の、「絶対的な真理などない」というのと、さほど違いはないように思えてくる。

西洋哲学の基本である、「真理は人間の上位にあって、生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なものである」という常識を覆したところが凄い、と飲茶氏は書いている。

わたしは考え方の基本的な路線としては、相対主義の発展形に過ぎないように感じる。何百年もキリスト教の影響にあったとは言え、少々、情けない。

それまでの常識をぶち破るのが、どんなに大変なのかが、これでよくわかるかもしれない。


このようにして、徐々に理論は発展してきた。

真理=人間の個人的な規定、とする。

ならばどうしたらそれにたどり着けるのか。

具体的な方法を提示したのが、

ヘーゲル(弁証法)である。

(以下次号:不定期連載)

真理の「真理」(01)

哲学の歴史は古代ギリシャから現在に至るまで約2600年。

最初の哲学者はタレス

彼は万物の根源を「水」と考えた。

あらゆることを神話で説明できるのが「あたりまえ」だったが、「それじゃ納得できない!」と考え、「目の前にある物体」を見て、「見えない何かで構成されている」と考える事から、哲学が始まった。

真理の真理(01)

プロタゴラス(相対主義)

古代ギリシャの哲学者。みんな違ってみんないい。この世に絶対的な価値や正義・真理などない。「人間は万物の尺度である」の提唱者。当時の政治家に熱狂的に支持された。

弊害:人それぞれなので、「真理を求める熱い気持ち」なんて持たなくていい。

みんなの共通の価値観というものを否定していると飲茶氏は語る。日本の考え方から言うなら、真理って和でしょという感覚があるのではなかろうかとわたしは思う。聖徳太子も17条憲法で、和が大切と書いている。

ソクラテス(無知の知)

古代ギリシャの哲学者。とにかく真理を知りたかった。「無知の自覚」こそが「真理への情熱」を呼び起こすものだ。「この世界には、命を賭けるに価する真理が存在し、人間はその真理を追究するために人生を投げ出す、強い生き方が出来る

弊害:質問された方は恥をかくことになる。

知っていることをあらためて知るというのは、感性を子どもに戻すということだと思う。アインシュタインは、『常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションにすぎない』と言っている。辞書を引いて、自分の考えている単語の内容に驚かされることもあるだろう。たとえば、右という単語を辞書ではどう説明するか。辞書によって違っているのである。

ちなみにソクラテスの弟子プラトンは、アカデメイア(大学)を作って真理を探求する学生たちを育てていった。


中世が起こり、真理は神への信仰によってもたらされるという考え方が出て来た。しかし、近代になってルネサンスや宗教改革が起こり、教会の力が弱まると、理性の力によって真理を追究しようという動きが起こる。

その代表が、**デカルト(我思う、ゆえに我あり)**。

MAROさんに言わせると、絶対的に信じるものが神から理性に変わっただけだ、という。言われてみれば確かにそうかもしれない。

デカルトの有名な言葉を突き詰めて考えていくと、エゴこそが最上のものになってしまう可能性がある。

仏教は自分の思考すら疑うことを教えていると聞いている。つまり、仏教では、自己中心的な考え方に囚われず、常に自分の思考や行動を見直すことが大切だとされている。このように、理性と信仰についての考え方は、文化や宗教によって大きく異なることがわかる。したがって、西洋にとって「真理」でも、東洋にとっては違うという場合もありうる。

デカルトは、自分の存在は神に保証されているので、ほかのことも存在すると言う理論を立てた。都合の良いところだけ神を持ち出すその態度に、批判が集まった。その代表は

ヒューム(懐疑論)である。

(以下、次号・不定期連載)