ゾンビ、からの贅沢うどん

丼の底に、じんわりと広がる黒い液体。
 その上に、くねくねと白い麺が横たわる。
 具は、ない。ネギすらない。

 はじめて目にしたとき、わたしは言葉を失った。
 「なにこれ、不味そう」
 姑は顔をしかめ、夫は「麺が柔らかすぎる」とつぶやいた。
 まるでゾンビのような、生命力の感じられない食べもの。
 だが、である。


「これがあるから生きていける」

 週末の昼下がり。ぽかぽか陽気のなか、ふとした瞬間に誰かが言う。
 「そろそろ、アレ、いっちゃう?」
 その声に、家族全員が黙ってうなずく。
 鍋に湯を沸かし、卵を取り出し、かき揚げを皿に載せる。
 流れるような手つきで、それぞれが持ち場をこなし、無駄のない動きで準備が整う。
 伊勢うどんの時間である。

 伊勢うどんが我が家の定番になったのは、たまたまつけたテレビがきっかけだった。
 画面に映るのは、黒いタレをまとった、つやつやの極太うどん。
 「これだ!」と膝を打ち、即座にお取り寄せした。

 実を言うと、わたしは伊勢の食道屋の孫娘である。
 祖父母の店は、地元ではちょっとした有名店だった。
 常連たちの笑顔、店内に漂う出汁の香り、慣れた手つきで麺を茹でる祖父の姿。
 今でも鮮明に思い出す。

 だが、その店はもうない。
 ある日、不運な火事で焼失してしまった。
 それでも、あの味を忘れたくなかった。
 そこで、通販でタレを取り寄せることにした。


タレの哀歌、からの奇跡の一滴

 ところが、届いたタレを開けてみると、妙に甘い。
 いや、伊勢うどんのタレは甘めがデフォルトなのだが、それにしても甘い。
 どうやら、観光客向けにアレンジされたものらしい。

 姑は眉をひそめる。
 「これ、甘すぎるわね」
 うーむ、困った。

 「ほんとは、もっと美味しいのよ! 本場の味を食べてみて!」
 わたしが力説すると、夫が助け舟を出した。
 「たまり醤油で割ればいいんじゃない?」
 さっそく伊勢のたまり醤油を取り寄せ、計量スプーンで半分加える。

 するとどうだろう。
 甘さとコクが絶妙なバランスを生み、湯気とともに立ち上る香りが鼻をくすぐる。
 箸を持つ手が、震えた。
 器の底にたまったタレを、柔らかな麺に絡める。
 そこに、生卵がとろりと加わる。
 もう、無敵である。


そして、うどんは幸福になる

 ずるっ……もちもち、トロリ、ジュワッ。
 この瞬間、わたしの脳内で天使の合唱が鳴り響く。
 「あら、これ、意外と美味しいじゃないの」
 姑も、いつの間にか完食していた。

 週末の昼下がり、家族全員、うどんをすすりながら幸福に浸る。
 これ以上の幸せがあろうか。いや、ない。(反語)
 皆さんもぜひ、お試しあれ。


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