2月3日の後日談

【慣習としての宗教】


 2月3日のBlogを見た夫が、「今日の日記は中の下だな」と言うので、そのワケを詳しく訊いてみました。すると夫は「日本人は一般的に無宗教だと言われているけれど、実際にはそうではない。むしろ、宗教が日常生活の中に深く慣習化しているだけなんだ。この件について興味深い論文があるから、ぜひ読んでみて」として、関連する研究論文をPDFで送ってくれました。論文は専門的な内容でありながらも、とても読みやすく整理された内容でした。
 それを熟読した結果、わたしは一つの重要な気づきを得ました。日本人が持っている宗教への無知や無関心という態度は、実は宗教が私たちの生活に深く溶け込み、当たり前のものとして慣習化してしまっているという事実から生まれているのだと感じたのです。

【「知る」と「わかる」は違います】


 いま、カクヨムのコミュニティで活動されている方(親しみを込めて「おっちゃん」と呼んでいます)と、この話題についてチャットで深い議論を交わしています。その方の説明によると、信仰や信心には、実は明確な段階的なレベルが存在するということでした。

具体的には、最も深い信仰心として、神を完全に崇拝し、すべてを捧げるというレベル。
次に、人生の苦難や困難に直面したときに、神に心から縋り、救いを求めるというレベル。
そして、最も軽度な関わり方として、神の持つ力の一部を、日常生活の中で少しだけ分けてもらうというレベル。

興味深いことに、日本人の一般的な信仰レベルは、主にこの最後の「ちょっとわけてもらう」という、比較的カジュアルなレベルに位置しているのだそうです。

この観点から考えると、宗教を純粋な知識として頭で理解している人の中に、真に「わかる」という深いレベルでの理解者が少ない理由が見えてきます。それは、現代の日本人が持っている「ちょっとだけパワーをわけてもらう」という気軽な態度や、宗教との緩やかな付き合い方が、伝統的な宗教が求める深い献身や厳格な信仰心とは、根本的に相容れないものだからかもしれません。

【無知無関心と無宗教】


 このように慣習化した宗教の典型的な例として、現代日本における仏教の位置づけを見てみましょう。本来、深い哲学と教えを持つ仏教が、今では主に葬儀や法事といった人生の節目におけるイベントの担当者という役割に収まってしまっています。日常会話でよく使用される「一蓮托生」「因果応報」「四苦八苦」といった仏教由来の慣用句についても、多くの人々がその仏教的な起源を知識として理解していても、それらの言葉に込められた深い思想や本質的な教えを真に理解している人は、残念ながらそれほど多くないのが現状です。

このような状況を見ると、確かに表面的には日本人は無宗教だと言えそうです。しかし、それは必ずしも信心や精神性の完全な欠如を意味するわけではありません。むしろ、独特な形で信仰心は存在しているのです。

最近、私は一つの興味深い考えに至りました。日本人が「無宗教です」と主張する背景には、実は非常に現実的な理由があるのではないでしょうか。それは、特定の宗教に深く没頭することで周囲の人々との軋轢や対立が生じる可能性を避けたい、という社会的な配慮が働いているのではないかと考えるようになりました。
 つまり、表面的に宗教をスルーすることで、人間関係の調和を保とうとする、日本人特有の処世術なのかもしれません。

まあ、このような宗教と日本人の関係性については、理論的な説明としては十分に理解できますし、その考え方には強く共感する部分もあります。ただし、だからといって、わたし自身が深い信心を持ってキリスト教などの特定の宗教に帰依するかというと、現時点ではそこまでの気持ちにはなれないというのが正直なところです。これは最近、特に強く感じている個人的な心境です。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です