【信じるものは救われる】
イエス・キリストを信じれば天国へ行ける。という原理主義のクリスチャンについて、例のカクヨムサイトのおっちゃんと盛り上がりました。
【ダベリング内容】
おっちゃんの考える仏教とは、
(引用開始)
仏教はある意味究極的なことを言えば、自行化他とかそういう感じだから。ナムアミダブツを唱えただけで救われるなんてことはない。
田島 絵里子 (わたし)
そうなってくると、キリスト教も厳しいなあ。
イエスを信じれば救われる、というのが主旨だもん
おっちゃん
信じれば救われるってことは
信じさえすればいいってことになるけどなw
田島 絵里子
それそれ
【信じること】
田島 絵里子
そこで問題です。「信じる」とはなんでしょう
1:盲目的に相手に従う
2:批判的に相手を見る
3:客観的に観察しつつ、相手を見定める
[20:10]
ほかにもいろいろ考え方はありますが!
おっちゃん
んーーーあえて3番を選ぶぜ
【1番が一番多いというしゃれもあったが】
信じるという現象について、1番が一番多いというおっちゃんのセリフ。盲目的に信じるのは良いけど巻き込まんで欲しいw と苦言を申しておりました。
ふと、前に夫が送付してくれた日本の慣習的宗教についての論文を思い出したんだけど、あの論文では信仰のレベルについては、あまりツッコンで表現されてなかった。こういうことは、測定器があるわけじゃないから、当然かもしれない。
【聖書学を元にしたわたしなりの信仰を】
おっちゃんは、わたしがnoteに連載していた聖書の話を読んで、面白くてゲラゲラ笑ったけど、なにか物足りないと言ってました。
つまり、その聖書の話について、わたしがどう思うのか、という論点がないというんですね。
わたしがその話について、「なぜこの話が現代に伝わっているのか」「この話になんの意味があるのか」という点についてのわたしなりの観点がないと、読み応えがないとのこと。
それを言われるとなあ。聖書学的になると、大抵、専門的な話になって、当事者じゃないと面白くもなんともないんだよね。
聖書学は父のたった一つの遺産なのですよ。
【旧約聖書の話の意味】
しかし、物足りないと言われてしまったら、奮起するしかない。
新宗教でもするつもりかとかいわれそうですがね。
父の遺産をそのままにしておくのは、やはり長女としてはダメなんだろうなと思ってます。
ちゃんと自分なりの意見が出せるかどうかは別問題だけど、やってみる。まだ緒についたばかりだけどね。自分の考え方を深めるのはいいことだと思うので。それをBlogで書くのも、アリだ。
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